【音色とアンブシュアの柔軟性】〜演奏家インタビュー/ナイジェル・ダウニング(Hr)第三回~

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先日、翻訳を完了し秋に出版予定のナイジェル・ダウニング著“Singing on the Wind〜Aspects of Horn Playing~”。直訳すると「息に乗せて歌う」

そのダウニングさんへのインタビューです。
前回はこちら→『「やるべきでない」ことを教えるのは、教師として最下策』

【音色とアンブシュアの柔軟性】
〜演奏家インタビュー/ナイジェル・ダウニング(Hr)第三回~

バジル
『ダルムシュタットに行って、ドイツでの生活への変化はどんなものでしたか?かなり若い年齢で行ったわけですが。』

ナイジェル
『すごく良かったよ。

当時のダルムシュタットのような歌劇場にはなんでも揃っといて、オーケストラ、コーラス、バレエ、舞台芸術関係者、裏方さんたち、衣装さん、メイクさん‥‥あらゆる人たちがいた。

ドイツに行った時、もうイギリスに戻らないと決心したよ。だから、空き時間があれば食堂に行ってビール片手に時間を過ごし、周りの会話に耳を向け、実際に会話を試みたりして、そうやって実地で実践を通じて言語を学んだんだ。アルコールは、言語習得の役に立つよ(笑)

似たような年齢の奏者も何人かいた。若くて綺麗なバレリーナたちもいたから楽しかったね(笑)

素晴らしい奏者たちともたくさん知り合えた。ダルムシュタットはフランクフルトに近くって、フランクフルトやウィースバーデンなど周辺のいろいろなオーケストラで演奏する機会をたくさん持てたし、「マインツ・ブレーザー・アンサンブル」というマインツにある管楽アンサンブルでもたくさん演奏した。素晴らしいコンサートばかりで、その地域のベストの奏者たちで構成されていたから、そこに混ざれて幸運だった。シュテファン・ドールも1stホルンをよく演奏していたよ。』

バジル
『そうか、彼は最初はフランクフルトのオーケストラにいましたね。』

ナイジェル
『そうそう。』

バジル
『当時の彼はどんな感じでしたか?』

ナイジェル
『いまと全然変わらないね(笑)なかなかずる賢いヤツなんだ(笑)おそろしくウマかったね!

当時はマンハイムで演奏していたウィル・サンダースと演奏することもできたよ。彼の演奏の仕方は素晴らしかった。隣に座っていて、「これは一体どうやってやっているんだ!」と感銘を受けていたよ。まったく以って美しく、特徴的な演奏をする奏者だった。

そんなふうに、とても楽しい時間を過ごした。

でもドイツのメンタリティーには、何年かして徐々に疲弊するようになっていった。』

バジル
『具体的には、どんなところですか?』

ナイジェル
『どこに行っても、新しい地域に行くとその土地の文化に直面することになるよね。ドイツは、何事もズバズバと遠慮なくキツく言う傾向がある。何かについて議論しているときはそれはすごく良いことなんだけれど、日常生活でもみんながアレコレ指摘してくるようだと、さすがに嫌になってしまうんだよね‥‥。

でも、ドイツから離れようと意識的に決めたわけではなくて、もっとレベルが高くて待遇の良いオーケストラへの移籍のチャレンジをしようと思っただけなんだ。

あとは、そういうチャンスがどこにあるかということだけだった。

ベルリンのオーケストラも考えたんだけれど、当時の西ベルリンには飛行機でしか入ることができなかった。そのオーケストラのオーディションを受けるために飛行機に乗っていて、「ここから出入りするたびにこうなるのは嫌だな」と思ってやめにした。

そんなわけで、「ここでならずっと生活したい」と思える場所を探し始めた。ミュンヘンやシュトゥットガルトのオーケストラのオーディションにも応募した。そんな頃に、チューリッヒの席が空いたんだ。

当時ぼくはトーンハレのことはあまり知らなかったけれど、オーディションの募集文書には旧トーンハレの建物の写真があって、「これはなかなか素敵だな」と思って応募したんだ(笑)

当時は今のように録音や映像、インターネットなどが無かったからオーケストラの情報も得ることはできなくて、雑誌「Das Orchester」に掲載されていることが唯一の情報源だったんだ。

トーンハレのオーディションの一週間前、さっき話したマインツ管楽アンサンブルのツアーで北イタリアにいて、毎晩へべれけになっていたんだ(笑)。それを終えて土曜日にダルムシュタットに帰ってきて、トーンハレのオーディションのは月曜に控えていたんだけれど、土曜日も日曜日も練習していてさっぱり吹けなかったんだ(笑)。だから、月曜の朝にチューリッヒに移動する代わりに日曜の夜のうちに現地入りした。その夜ちょっと吹いていたらなんとかハイEbは無理やり出せたから、「ひどい顔色だからカーテン審査なら一応演奏して帰ろう」と決めたんだ(笑)。月曜朝10時。幸いカーテン審査だったから演奏したよ(笑)』

バジル
『ダルムシュタットにいたのは何年間ですか』

ナイジェル
『1981年〜1987年。1987年からチューリヒ・トーンハレで演奏するようになった。』

バジル
『トーンハレに入った当時の同僚たちは、どんな人たちでしたか?』

ナイジェル
『1番ホルンがヤコブ・ヘフティ。10年前に定年退職したよ。ほかにも年配の奏者が二人いた。ギュンター・シュルントとエーリッヒ・フリット。ふたりともドイツ人で、第二次大戦の直後にスイスに移ったんだ。素晴らしい同僚たちだったよ。』

バジル
『彼らのスタイルや、テクニックの志向はどのようなものでしたか?』

ナイジェル
『みんな、それぞれにとても異なっていたね。その時代は、グループの中での統一的なサウンドという概念はあまり無かったんだ。エーリッヒは64歳でギュンターは60歳だったから、全盛期は過ぎていたのだけれどね。エーリッヒはすごく安定した奏者で、ギュンターは天賦の才がある奏者だった。

ギュンターは60歳ぐらいまでは誰が聴いても「これは天才だ!」と思うような奏者だったんだ。その後からは、そうではなくなってしまったんだけれど。よくあることさ。一緒に仕事はしたし録音もいくつかやって、なんとか仕事はこなせるという状況だったんだけれど、それでも「このひとの才能は凄かったんだな」と感じ取れる何かがあったね。

それに、彼は休暇の間は全く練習しないけれど、リハーサルの初日にホルンを取り出してブルックナー4番を演奏できるようなタイプの奏者だった。誰にも、練習していなかったことを気付かれずにね。羨ましくなるような才能だったよ。

でもぼくがトーンハレに入った頃には、さっき言ったように彼は60を越えていたから、彼の代わりを務めるようなことも多くて、1番・2番・3番ホルンをやっていたよ。

チューリッヒ室内オーケストラでもぼくは演奏していて、1番ホルンを務めていた。なかなか楽しかったよ。』

バジル
『それから何人か新しくホルン奏者たちが入団してきたわけですね。たとえばイフォ・ガースなど。』

ナイジェル
『そうなんだ。トーンハレのオーケストラとしてのレベルは、ジンマーマンが指揮者に就任してから急激に上がった。なかなか目まぐるしく、エキサイティングな変化だったよ。新しい団員を迎え入れていくにあたっては、オーケストラの評判はどんどん上がってピークに達していたからとても良い奏者たちから応募があった。

イフォ・ガース、、パウエル・ニュニョス、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管でも演奏したロバート・トイチュなど。』

バジル
『トーンハレのホルンセクションのスタイルに、何か特定の志向性はありますか?』

ナイジェル
『そういった新しいメンバーが入ってきてからは、明確にアレキサンダーホルンのスタイルになっていったね。でも、大半のドイツのオーケストラのホルンセクションと比べると、トーンハレは「伝統的なドイツの音」を保ったと思う。わたしたちは、そういう意味ではより丸く、柔らかい音を志向する傾向があると思う。それは、ドイツのホルンの音は硬くなってしまったと言っているに等しいのだけれどね。』

バジル
『わたしは2003~2008年にドイツにいましたが、各地のオーケストラのホルンの音を聴いて、その音の軽さ・明るさ、そして硬い傾向にとても驚かされました。すごく上手な奏者たちではありますが、ちょっと硬すぎるように感じました。』

ナイジェル
『その通りだ。ちょっとスポーツ的になりすぎているのかな。テクニカルに素晴らしい奏者がたくさん生まれたけれど、音の美しさが失われている傾向があるように思う。君の言うように、音が明るくなった。

残念なのは、以前はそういう音はトロンボーンが担うものだったんだ。現在はトロンボーンの音が暗くなっている傾向がある。昔からオーケストラで演奏しているぼくからすると、変な感じがするね。

誰もが憧れるベルリン・フィルのシュテファン・ドール。彼は明るい特徴的な音で演奏する。ベルリン・フィルのホルンセクションが、バボラク的な音の方向性に少し戻れば、ドイツや世界の志向性に少し影響を与えられるんだろうけれど。

それに、いまドイツで影響力を持っている教師たちの多くは、ペンツェルの弟子たちだ。彼らには、硬めでブラッシーな音のコンセプトを持っている。ただ、数年前にペンツェル本人と話をしていたら、彼は「ドイツのホルンの音は明るくなり過ぎてきている」と言っていたよ。』

バジル
『ペンツェル自身の音も、かなり明るくありませんでしたか?』

ナイジェル
『どうだろう、ぼくが持っている彼の録音では、それほど明るくは感じないな。彼はライプツィヒ出身で、そこでは古きクルスペの伝統が息づいていた。ぼくには、ペンツェルの音はその系統の音に感じる。暗い音ではないけれど、現在のような「明るい音」ではないね。クリーンな音だと思う。それに、少なくとも録音で聴く彼の演奏は全然アグレッシブではなくて、とてもエレガントだと思うね。』

バジル
『ヘルマン・バウマンの演奏は、ドイツのスタイルに影響を与えたでしょうか?それとも別カテゴリーでしょうか?』

ナイジェル
『彼は別カテゴリーだね。あまり影響しなかったと思う。というのも、いちど彼に直接尋ねたことがあるんだ。「どうしてヴィヴラートを使って演奏するようになったの?」と。すると彼は、「それは、自分の演奏スタイルをもっと歌に近づけたかったからだ」と答えたんだ。まさに、彼は歌って演奏していて、音楽的な素晴らしいラインがあるね。一方で、そのヴィヴラートによって楽器の共鳴が失われているかもしれない。まあそんなわけで、バウマンの演奏がドイツの「音のコンセプト」に影響を与えたようには思わない。バウマンは、独自だったと思う。

対照的なのが、アラン・シヴィルが英国のホルンの音のコンセプトに与えた影響だ。』

バジル
『個人的な興味で尋ねるのですが、ノルベルト・ハウプトマンの音がすごく好きなのですが、彼はどうですか?』

ナイジェル
『素晴らしい音だね。でも彼の音が、古き伝統的なドイツの音なのだよ。ザイフェルトはそれに対して、より明るかった。ハウプトマンは古いドイツのスタイルを体現していたね。

アラン・シヴィルの音もそうで、オールドファッションなドイツの音なんだよ。彼はハンブルクに留学してヴィリー・フォン・シュテムに学んだんだ。そこでアラン・シヴィルは自らの音のコンセプトを確立した。

こういった古い世代の奏者たちは、まさにドイツの音を体現していたんだ。

ダルムシュタットにいたときも、オットーという年配の奏者がいた。彼は若いときベルリンにいて、ヒットラー直属の「ライヒ・オーケストラ」にいたんだ。そんなオットーは、とても丸いドイツらしい音だった。

それって、本当はアレキサンダーホルンで出る、出すべきとされる音なんだよ。

例えばラドヴァン・ブラトコビッチの演奏の仕方を見ると、アンブシュアの柔軟性が高く、その柔軟性がアンブシュアが共鳴することを可能にし、リラックスした振動が楽器を共鳴させることを可能にする。

それと比較すると、多くのドイツの奏者はアンブシュアを強く緊張させていて、それはいまのドイツ的な指導法でもあるんだけれど、固定的なアンブシュアで
演奏すると、楽器が共鳴するようなアンブシュアの振動をさせてあげていないことになり、それが音の硬さを生み出すんだ。‥‥ドイツの仲間たちには怒られてしまいそうだが‥‥!!』

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第4回『オーディションは自分が心から納得する表現を提示する場』へ続く
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