これから述べる事は、きっと人によっては当たりまえのこと、そして人によっては「なるほど!」と思うことでしょう。
それは
「技術と音楽は一体」である
ということ。
よく「音楽を演奏するときは技術的なことは考えない方が良い」と言われますよね?
まず事実から述べると、あらゆる演奏には、その演奏を成立させる「技術」が不可欠です。
技術とはすなわち、望み通りに音を現実に生み出す「身体運動」と言えるでしょう。
「買い物に行く」ということには「歩く」という「技術」が必要です。
当たり前になっていますが、歩くという能力は、ちゃんと成長過程で身につける「身体的運動技術」です。
演奏もこれと同じ。音楽を演奏しているということは、すなわち何かしらの「技術」を使っています。
だから、意識的であれ無意識的であれ、必ず脳は演奏技術という身体運動の指令を出しています。
つまり、音楽家を演奏しているとき、必ず技術という具体的身体運動があり、これは実際に脳から指令されている、ある種の「考え」なのです。
不思議なことに音楽と技術が、いつの間にか別物、対立的な関係で語られがちになっています。
「音楽を演奏するとき技術的なことは考えない方が良い」という言い方はそれがよく現れています。
おそらく、この記述の意味している「技術」の定義がミソですね。
この場合の「技術的に考える」というものは、技術を獲得する過程で「考えている」ことや、技術的側面を「分析する」ときの「考えている」ことを指していると考えられます。
音楽を演奏するときは、確かに技術的分析は邪魔になります。音楽を演奏するというプロセスとは別物だからです。
分析は、別に時間をとって行うものです。
しかし、音楽を演奏する=音を生み出すということですが、そこには必ず「技術」が存在しています。
無自覚であっても、必ず技術的思考/身体イメージを用いた思考があります。「音だけ考える」では何もできません。
結論から言うと、音楽を演奏しているとき、そこには音楽のイメージと技術的身体的イメージが必ず一体的に存在している、ということです。
それは音楽と技術(身体運動)は不可分であることを意味し、すなわち「音楽を演奏する時に技術的なことを考えない、ということは不可能」であることを意味します。
感覚的には、「何も技術的なことを考えずに済んだときにすごく音楽的に良い演奏ができた」という経験があるのは、その通りです。
しかしそれはあくまで感覚上の話。
実体はむしろ、「音楽と技術の間の人工的区別がなくなり、本来の一体的なものに戻った」という現象の体験なのです。
ある日練習をしていてこのことにハッと気付きました。
私は「音楽を演奏するとき技術的なことは考えちゃいけない」とそれまで思っていました。
そう言われて育って来たし、自分のなかで技術的に考えること=ハズさないようにするという隠れたつながりを持っていたからこそ、説得力ある考え方でした。
しかし、結果的にやっていたことは、曲をさらうときに「技術的=身体的なこと」を考えないようにしようとしていたのです。
これは、不可能。音楽と技術は不可分なものだからです。
不可分なものを分けて片方だけ無くそうとしていたのですね。非現実的で不可能なことなのです。
Basil Kritzer