トロンボーン演奏愛好家から相談のメールを頂きました。
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【相談者】
いつもブログを拝見し、参考にさせていただいております。
楽器の奏法も身体の使い方もたくさん聞きたい教えていただきたいことがあるのですが、先日更新された「やらなきゃと思うのは子供」(こちら)を拝見し、自分の「音楽との向き合い方」がとても不健康なんじゃないかと思い、前々から気になっていたことも含めてメールをお送りした次第です。
昨年より、これまで憧れとしていた社会人吹奏楽団に入団しました。自分が下手くそなのはわかっているので、まずはなんとか仕事や家のことを調整しつつ練習についていけるようにしよう、きっとそのうちペースを掴んで、身の丈にあった楽しみ方ができるようになるはず、と思っていました。
基礎からおぼつかない私を団員の方々は気にかけてくださり、一緒に練習していただいたり、アドバイスをくださったりします。とても感謝しています。
ですが、その「アドバイス」や「指摘」を素直に受け取れず、ただただショックを受けて萎縮してしまっている自分に気づきました。
素直に受け止めて、試してみて、自己判断して…を繰り返していけば良いのに、ひとつひとつにショックを受けて「出来ていないんだ」「なんとかしなきゃ」という方向に意識が向いてしまうのです。
その思考が原因で思うように吹けない…という悪循環を辿っているのも、なんとなく自分で気づいています。
これは『憧れの楽団に入ったから』というだけではなく、これまでの吹奏楽人生でずっとそうであったように思います。合奏中に指揮者から部分的に抜粋のうえ各々指摘されるのはごく普通のことですが、それですらショックを受けて萎縮してしまっているのです。かといって何も言われないのは、それはそれで不安になり、必要以上に周囲の様子を伺ってしまいます。
そんな不安定なメンタルでずっと音楽をやってきて、なのにいまだに余暇時間で音楽と向き合おうとして、やらなきゃやらなきゃと焦っていて、とても不健康な状態な気がしてなりません。
ポジティブに健康的に音楽と向き合うために、どのような心持ちで取り組めば良いのか(といっても長年の思考の癖だと思うので急には難しいのも重々承知です)、ご教授いただけたら幸いです。
大変お忙しい中、まとまりのない長文をお送りしてしまい申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。
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【バジル】
文章を3度ほど読み返して、深く掘り下げる前に確認したいなと思ったことがあります。
それは、
・指摘内容は正確・的確かどうか?
・指摘内容はご自身でも認識・同意できるものか?
ということです。
指摘やフィードバックが「本当にその通りだな」と自分でも分かることだとしたら、それを改善していく過程でショックな気持ちが妨げになっている、という構図になりますが、
指摘内容が理解・実感できないものの場合、改善しようにもどのような現状からどのような目標に向かう過程なのかがそもそも明確でないという構図になります。
そして、指摘内容が正確・的確でない場合は、指摘に基づき改善しようという動きそのものがズレになっているという構図になります。
状況がどれに当てはまっているか、もしくは近いか?
まずそこを明らかにしたく思います。
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【相談者】
お忙しいところご返信をいただき、ありがとうございます。
・指摘内容は正確・的確かどうか?
→
的確かどうかは、人によって違いがあるような気がしています。
正確かどうかについては「少なくともその方にとってはそう感じた」と思っている節があります。
・指摘内容はご自身でも認識・同意できるものか?
→
改めて思い返してみると、例えば演奏中にすでに自分で「出だしが遅れた」「音が揺れている」など認識している時は、指摘されても自分でもわかっているので、そこまで大きなショックを受けることはありません。ですが「やっぱりそうなんだ…」とは思ってしまいます。
(ただこれを書きながら、バジル先生の別のお話で、吹きながら反省をしているのは奏者としての責任を果たしていない、と拝見した記憶があるので、それもそれで不健康な気がします…)
ショックを受けるのはもしかすると、あまり何も考えずに吹いている時なのかもしれません。
何も考えずに、というのはやや語弊がありますが、私は演奏する時に、自分自身だけのことに頑張り過ぎてしまっている感覚があるため、そこに対して自分の意識していないところから指摘等を受けた時にショックを受けている気がします。
指摘されたことに対し、理解はできます。ただ実感できるかといわれると、その時はあまりできていないのかもしれません。
さらに思い返して思ったこととして、ショックを受けるのは、技術的なことに対してがほとんどです。音楽表現的なことに対してはポジティブに受け取りが出来ているような気がします。
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【バジル】
お返事有難うございます。
そうしますと、
・認識していないこと
・技術的なこと
にの指摘に接したときにショックが生まれるわけですね。
そのショックは、
「(認識していなかったことで)気づいていなかったなんて自分はダメだな・・・」
みたいなショックなのか、
「(認識していなかったことを)これから意識しないといけないのは嫌だな・・・」
みたいなショックなのか、
どちらかといえばこちら、というのはありますか?
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【相談者】
前者の方が近いと思います。
「気づいていなかった自分」というより「出来ていない自分」の方がより近い感じがします。
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【バジル】
すると、技術的なことのほうが音楽的なことより定量化数値化できそうな分、数値的なメジャーで「評価」されるような気持ちになって、良い悪い優劣みたいな感じになるのでしょうかね。
ちょっと、通知表みたいな?
あるいは人事評価みたいな?
どれくらい当たっていますでしょうか?
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【相談者】
あまり数値的には考えたことがなかったのですが、元々の性格が生真面目といいますか、良い悪いや正解不正解をわりとはっきりさせたがる傾向にはあると思います。
そのため、技術的なことについては優劣のような感覚が少々強くあるのかもしれません。
また、音楽的なことについては、技術的なことがしっかりとした状態でないと「できない」「やれない」という意識が無意識のうちに働いているのかもしれないと思いました。だから余計にショックを受けている部分があるのかもしれません。
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【バジル】
すると、評価というよりは条件ですね。
指摘されたからには、(技術的に課題があるから)やりたい音楽をやれない・まだやってはいけない
やりたいこと愛していることができないんだ、というショックでしょうか?
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【相談者】
そうかもしれません。指摘されたその瞬間には「評価」的な部分でショックを受けつつ、やりたいこと・求められていることに辿りつけていない「条件」的な部分で追い打ちのようにショックを受けているような気がします。
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【バジル】
そうしますと
「やりたいこと・愛していることをやるのに、他者の評価や特定の技術的な水準を満たないと、それをやることは許されないのか?」
という問いは、考えてみるに値しますでしょうか?
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【相談者】
はい。
「やりたいこと・愛していることをやるのに、他者の評価なんて関係ない」
と思っている自分がいることは確かなのですが、どこかで許されないと思い萎縮している自分がいるため、解決の糸口を見つけたいです。
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【バジル】
そうしましたら、次に同じパターンでショックを受けたとき、
「さあ、いまこうして指摘された自分は音楽を愛し音楽を奏でることは許されないのか?」
と意識的に問うてみること。それが第一歩かなと思います。
いまが、前回のショックの影響下にあるなら、いまそれを意識的に問うのがさらにその前のステップかなと思います。
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【相談者】
バジル先生のご指摘に、良い意味でのショックを受けています。
やりたいことが上手く出来なくて、周りからも指摘されて、どうしても音楽を表現するところまで上がっていけない自分に対し、1番許していないのは自分自身かもしれません。
前回ショックを受けた指摘と重ね合わせて考えてみると(その時は音の立ち上がりと息の初速についてでした)、確かにそれは大切だし必要なことなのですが、そればかり気にしてがんじがらめになっても「音楽」に直接結び付くわけではなく「木を見て森を見ず」な状況になってしまっているのかな、と思いました。
音楽を愛し音楽を奏でるために、もっとその音楽のことを知りたいし愛したいし、そうすることで今何をすべきで何を考えるべきなのか、意識が動いていきそうな気がしています。
ただ、今はバジル先生のおかげでそのように考えることができていますが、実際にまた合奏やパート練習の場で同じように考えることは自信が持てないので、まずは次の練習の際にそのように意識的に考えることができるよう、今回やり取りさせていただいたことをしっかり心に留めておきたいと思います。
貴重なお時間を頂戴し、感謝申し上げます。
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【バジル】
「音楽を愛する」
「音楽を楽しむ」
「自分も音楽を奏でる」
これが真実あるいは決意あるいは方針のようなものですね。
それが定まっていれば、合奏のどのタイミングや局面、きっかけなどでそこから逸脱したりそれを反故にするような気持ちや思考になるか、その瞬間や少なくとも近辺を目の当たりにできるかもしれません。
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数日後
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【相談者】
先日、合奏練習がありました。
時間を長く取っての集中練習であったため、もちろん抜き出されて指摘されて…という時間がありました。
最初の方は、思い通りに吹けていないかつ自覚もある部分について、指摘・抜き出されての指導に対し「やっぱりできていないんだ」というショックを覚えました。
そこで教えていただいた通り、意識的に『そんな私は音楽を愛する資格はないのか?』と自問自答しました。
…といっても合奏練習中ですので、悶々と考えていたら目の前の音楽をないがしろにしてしまうと思ったため、途中から
『誰が何と言おうと私は音楽が好きだ!音楽を愛している!だから今この時この場所にいるんだし、全部を受け入れる!』
と言い聞かせるようにしました。
すると、不思議と周りの音や様子がすっと自分の中に入り込んでくるようになりました。
自分自身がミスをしたとしても、周りとの調和や音楽の流れを自然に感じ取ることができるようになった気がして、とても楽になりました。
楽になってくると、身体の使い方も良い方向に転じてきたのか、いつもより調子が良い状態で練習に臨むことができました。
もちろんその後も指摘される部分はありましたが、前向きにとらえて、その合奏中にどんどん良くなっていったのがはっきりと実感できました。
改めて、気持ちってとても大事なんだな、と思いました。
また、心・体・音楽・その他諸々、総じてのバランスの取り方についての奥深さも感じたところですので、より楽しく自分らしく音楽と向き合うことができるよう、バジル先生のレッスン受講も視野に入れつつ、これからも精進していきたいなと思いました。
長々と大変失礼いたしました。
この度はお忙しいところ貴重なお時間・お話をいただき、心より感謝申し上げます。
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【バジル】
『問い直し』は、足を引っ張り歩みを弱める毒の解析と中和(だから合奏中にはやる暇がないことも)
今回された『宣言』は、歩む決意、あるいは歩みそのもの
なのかもしれませんね!
有難うございました😊