– – –
特定の基準や水準に『達する』ことができないと意味がないと感じていたり、それ以外のことに価値を感じることができていない人が指導者にはけっこう当たり前にいるのではないかと考えています。指導者に限らず、そういうものの考え方の人もいます。
一方で、
上達することや、やりたいことをやれるようになっていくことに意味や価値を見出す人は、小さな前進や成長も大変肯定的に受け止め評価します。その積み重ねによるさらなる上達や成長が地続きで存在していると直感しているからでしょう。
そうすると、指導において、あるいは自己コーチングにおいて、ちょっと前進したことや上達したことを価値があると評価しフィードバックすします。
この様子を『水準』や『到達度』で本質的に評価するひとは「甘い」と思ったり、「胡散臭い」と思ったり、「お花畑だ」と蔑む態度を取ったり、という構図があるのではないかと考えが整理されました。
それで、才能や見込みのある生徒は一所懸命教えるけど、そうでないと感じた生徒は「厳しく」突き放したりいい加減に接したりする。そんな構図が生まれることがあるんじゃないかな、と推察します。
特定の基準や水準に達しないと、どんな上達や成長も無意味無価値と捉えることが基本になっていたり、優勢だったりするわけですからね。
しかし突き放されたり見限られた側は、それでも努力しているかもしれない。競争には負けても個人的にはまだ上達したり成長したりしたいかもしれない。
指導者の責任とは、そういう生徒一人一人の願いや望みの実現を促進サポートすること。わたしはそう定義する指導者がもっと増えてほしいと考えています。その方が、『伸びる』ひとが増える。やりたいことがよりやりたいようにできるひとが増える。
それは甘い、競争を見据えていない、という向きもありますが、わたしはむしろこの方が個々のレベルが上がり競争参加者も増えて競争効果が強化し全体の底上げになるのではないか、と論理的には推測します。
指導者は、自らの関わりや介在により
生徒が伸びたか?
伸びが加速したか?
不調や悩みが改善しているか?
というところに目を向ける、という発想がより浸透するの素晴らしいと思います。
それは指導能力の、より公平客観的な評価指標にもなるでしょうから、生徒ばかりじゃなくて指導者の指導能力による健全な競争も促しうると思います。
こういう観点は、指導者が生徒を潰したり傷付けたりして競争参加者を減らし分野を硬直させたり衰退させたりする効果を予防するようなものでもあるかとも思います。
足りないこと、もっとよくできるはずのことをフィードバックすることは、もちろん価値があります。それこそが必要なこともあるでしょう。
しかし、そういった足りないことやできていないことが解決改善向上することは当然生徒も望んでいますから、実際に解決改善向上という現象が指導者の介在や助力により発生もしくは増大することこそが指導者が目指すことがもっと当たり前になる余地が大いにあると考えています。
これを、『指導者に依存させること』と捉える向きもありますが、それはあまりに捻くれた見方に思います。現実にはひとは解決改善向上の体験や手応えから学び、理解を得ていくのではないか?少なくとも、その側面を無視できない。
そして、一向に解決改善向上せず、能力や自信が育たない状況こそが指導者に依存させることではないか?少なくともその側面も無視できない。
細かく深く考えればそう単純ではないのは確かですが、ひとまずは
『指導者の介在により生徒が伸びたり悩みや課題が解決改善していっているか否か』
に指導者の存在価値を測る指標が見出しうる、
という観点を提示したいと思います。
Basil Kritzer