練習と「愛」

練習はなぜやるのか?「ダメな自分を良くするため」か?それとも「楽器が好きだから」か?

上達するために練習が必要なら、その動機は「楽器が好きだから練習する」で良いのではないか?ダメな自分、下手な自分を否定し「改善」するための努力は必要なのだろうか?

音楽に打ち込むひとの、素敵な特徴に「自己鍛錬ができる」ことが挙げられる。プロアマ問わずだ。

プロアマ問わず、音楽家は「規律」を内面化している。これが人生のとても強い支えになる。なぜ、音楽に打ち込むひとは「規律」という価値を獲得できるのか?

それは、楽器には練習が必要であり、努力が必要であると同時に、楽器をやるひとは楽器を愛しているからだ。つまりあらゆる努力が「愛」から生まれるからだ。

そのため、規律も努力も全て自分への労わりであり贈りものになる。これが音楽家の持つ、自分で自分を満たせる構造だ。物や成果や評価に自分の存在価値を預けないでいられる強さ。

それなら尚更、「ダメな自分を改善する」自己否定式の努力は必要ないのではないか、と思わざるを得ない。これが実は身体を緊張させ、エネルギーを奪い、やる気を萎縮させ、努力から自分を遠ざけさせたくなる。つまり「辛い」のだ。

世の中には少数の「自分に甘い」ひとと大多数の「自分に厳しい」ひとがいる。パフォーマーとして成功するひとには前者が多い。だから彼らは、自分に厳しくすること、律することを殊更に強調する。自分ではその意識が役に立ったからだ。

だが、世の中の大多数のひとは自分に厳しい。とくに日本はそうだ。だからこそこれほど清潔で安全な社会になる。

自分に厳しい大多数のひとにとっては、更なる厳しさは、自己否定と萎縮につながる。重要なのは過度の厳しさや自己否定をすこしづつ剥がし、いつも変わらずそこにある、音楽と楽器、そして自分自身への愛にもう一度触れ、感じること。

そこから生まれる努力は愛と自己受容に裏打ちされ、揺るぎない強大な「規律」となって、無限の好奇心、探究心、喜びを供給してくれる。

アレクサンダーテクニーク教師としての私の仕事は、ひとがやりたいことをできるようにするために邪魔になっている「余計な」ことを手放す体験と実感そして方法を提供すること。そのためには、私自身がその道を歩まねばならない。日々、修行。ただし、気持ちが軽くなる修行である。

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