それでは、F.M.アレクサンダー自身が後に「アレクサンダー・テクニーク」として知られることとなる、
人間の動きの原理の発見に至った過程を追っていきます。
今回の稿のキーワードは『観察』です。
F.M.アレクサンダーは青年時代、小さい頃からの情熱である役者として成功しつつありました。
そんな頃、彼は舞台上で段々声がしわがれて出なくなり、また息を吸うときにうるさい雑音を立ててしまう
という症状に悩まされるようになります。
医者にも診てもらって治療を試みましたが、特段の効果はないままでした。
決定的となったのは、ある重要な演技の仕事が入ってきたとき。
状態の悪さが心配であったアレクサンダーは改めて医者に相談します。
医者から、前もってしっかり声を使わずに休んでおけば大丈夫だと言われ、
彼はその通りにしてみました。
さて本番。
声を休めておいたおかげか、出だしは好調でした。
しかし、半分も終わらないうちにあっという間に声の状態は悪化し、
舞台が終わる頃にはしわがれきってしまってほとんど声が出せない有様でした。
彼のショックは相当なものでした。
昔からの夢であった俳優としてのキャリア。
成功までもう一歩のところで声の不調で終えてしまうのか-。
しかしアレクサンダーはその情熱を、
この問題の正体を見極め、かつ医者の治療という対症療法に頼らずに
なんとか解決を目指すことに結び付けます。
アレクサンダーは鏡を買いそろえ、徹底的に自分の行っていることの観察を始めました。
普段どおりに話す分には、大丈夫。
でも演技で声を使うと、しわがれてきて、吸い込むような音を立てる呼吸の仕方になる。
出発点はこれだけですが、
そこからひとつの仮説が浮上しました-
「演技で声を使うときに何か『やっている』ことがあるのではないか」
そして
「その『やっていること』を見つけ出して、『やめる』ことが出来れば問題は解決するのではないか」
と。
まずは普段どおりに話をしている自分の様子を観察しました。
しかし、特段何も見当たることはありません。
次に演技をやってみました。
最初は特になんとも思い当たることが見えません。
しかし繰り返し注意深く観察していると
ほどなくして明らかに違いが見えてきました。
演技をしているときは、声を出す直前に
1:頭を後ろに引っ張る
2:喉を押し下げる
3:口から音を立てて息を吸い込む
ということをしていたのです。
このような傾向にいったん気がつくと、実は普通に話をしている分にも
同じようなことをやっていたのが見えてきました。
段々と、点と点が線でつながってきました。
この過程の伏線にあるのは『観察する能力』です。
注釈でアレクサンダー自身が言及していますが、
まず自分のやっていることの現状を把握できるようになるまでに一定の訓練が必要なのです。
注意深く観察し、観察対象の繊細なレベルまで気がつくようになるには、
それだけ観察に時間をかけ必要があるのです。
そうやって観察能力が向上したおかげで、アレクサンダーは
「原因となっているらしい癖が、実は普段からも起きている」
という事実を発見します。
管楽器プレイヤーの私たちにも教訓になるエピソードです。
多くの場合、私たちはスランプや不調になると、
自己観察をまるっきり省いて解決策だけ見つけ出そうとします。
これは不安や恐れからくる行動で、致し方ない面もありますが、
私たち人間は素晴らしい観察眼を持っています。
本当の武器は、この観察能力なのです。
まずは自分が何を考え、何をやっているのか、
観察しましょう。
鏡を使うのも有効ですし、単純に自分がどのような動きをしているか、
あるいはいま楽器がどのようなセッティングになっているか、
そういった多側面をありのままでしばらく観察してみるとよいのではないでしょうか。
さらにもうひとつ隠された主題があります。
それは「自分が自分の責任を持つ」ということです。
普通の人なら、お医者さんにかかってもダメなら、諦めます。
あるいはいつまでも誰かのアドバイスや意見を鵜呑みにしたままでいます。
しかしアレクサンダーはそこを乗り越えました。
医者の論理とその対症療法の限界を見定めると、
勇気を持って自分が解決のプロセスに直接関わることにしたのです。
これは自分の思考・理由付けを信頼し、それに基づいて行動に移したことを意味します。
管楽器を演奏する私たちの場合、どうでしょうか?
よくある話は
不調を相談する
↓
杓子定規な返答
「アンブシュアが悪い!直せ!」/「お腹で息がすえてない。身体で覚えるまでひたすら練習!」
↓
あまり希望もないが、言われたのでとにかく頑張ってみる
↓
うまくいかない
↓
あきらめる/うやむやにしておく
というパターンですね。
私たちは、何らかの助け(アレクサンダーの場合は「鏡」)は必ず必要ですが、
自分の理性と観察眼をしっかり使って、自分で自分を救うという責任を引き受けさえすれば
必ず次の一歩を見出せるのです。
助けは、良い(と自分で信頼できる)教本、教師、友人など自分で見つけ出すものです。
アレクサンダーの場合は大枚をはたいて鏡を買い揃えました。
私たちもそれなりのお金や時間または労力を惜しまずに、
自分に信頼できるフィードバックをくれる=観察を可能にしてくれる助けを
見つけ出す必要があります。
以上、
・観察の能力
そして
・自己責任
という重要なポイントを解説しました。
以後この二点は様々な形で現れます。
『心身は統合された一つのものである』 F.M.アレクサンダー著 「自分の使い方」要約シリーズ?管楽器演奏で考えるとこうなる?その2
F.M.アレクサンダーは、テクニークの成り立ちや内容を述べる前に、 そもそもテクニーク自体が、 「人間のどんな活動においても、メンタルに行っていること(思考)とフィジカルに行っていること(身体)を分けることはできない」 という事実を前提に基づいていると明言しています。 そして、これは単なる理論ではなく、自分自身と自分の行ってきたレッスン(彼は「実験」と呼びます)の経験から結論せざるを得なかったと。 自分がそう思うとしているのではなく、経験と観察を見ているとそうとしか説明できないという、事実を見せつけられたというニュアンスです。 実は心身は一体であるという考え方、受け入れる人は多くても、活動のなかでそれが実際にはどうあてはまるのかはほとんどの人にとって理解が難しいとも述べています。 管楽器演奏の場合でも、同じ事を多くのひとは感じているのではないでしょうか。気持ちの持っていきようや精神状態に応じて演奏の質や、さらにはフィジカルなものであるはずの演奏技術も確実に影響を受けているのは分かるが、じゃあなぜそうなのか、そしてどうやったら「心身一体である自分」をうまく使えるのかは皆、悩んでいるところなのです。 私たち管楽器奏者は、たとえば姿勢や呼吸など「身体の使い方」はよく意識しています。また練習のときに落ち着いた精神状態を作ったり、本番に照準を合わせて集中力を高めたりと、「心の使い方」も工夫しコントロールしているのが普通です。 しかし、アレクサンダーによると「心身は統合された一つのもの」であり、分けて使う事なんてできません。 アレクサンダーが提起しているのは「心身を含む全体である『自分』の使い方」です。それが著作の題名である「自分の使い方」となっています。 「自分」というものが何かをするとき、自分の中の精神的プロセスであれ身体的プロセスであれ、それは別個のものではない。どちらも自分という全体の一部なのですね。 アレクサンダーは「部分は全部足しても全体にはならない」と言います。 つまり、精神+身体≠自分ということです。 アレクサンダーの述べていることを読んでも、たぶん大半の人は、頭の中のイメージが精神+身体=自分という理解でよい、と思ってしまうでしょう。 でもそうじゃないんです。 精神+身体=自分と考えていると、精神と身体は別個であると思っている証拠です。 精神+身体≠自分は、精神と身体を分けること…
目次 「自分の使い方」より第一章「テクニークの進化」?管楽器演奏で考えるとこうなる?
「自分の使い方」より第一章「テクニークの進化」?管楽器演奏で考えるとこうなる?目次 はじめに その1:『実用性』 その2:『心身は統合された一つのものである』 その3:『観察の能力」 その4:『頭の動きから始まる』&『使い方が機能・状態に影響する』 その5:『意識的なカラダの使い方』 Basil Kritzer ホルン&金管トレーナー。 BodyThinking認定コーチ ThinkingBody 認定コーチ 京都華頂女子高等学校音楽科ホルン科講師。 香港生まれ、京都育ち。ドイツ・エッセンフォルクヴァング芸大ホルン専攻卒業。 現在、BODY CHANCE にてアレクサンダー・テクニーク教師養成課程履修中。通訳兼務。 2012年 アレクサンダー・テクニーク講師資格取得予定 バジルの練習動画日誌 にほんブログ村 にほんブログ村