アンブシュアを「考える」

管楽器の奏法論の世界には、とても豊富な情報があります。

とくに、アンブシュアの操作、呼吸のコントロール、ホルンに限れば右手の使い方。この三つに関しては、もう完全マニュアルかというぐらい、いっーっぱい情報が手に入る。

でも、わたし自身はホルンを学ぶ過程でそういった情報を読んでもよく意味が分からなかったし、実感もできないケースが多かったのです。ホルンの先生たちに教えてもらっても、いまいちしっくり来ないケースも。

右手の使い方に関してだけは、在学した大学の教授として師事したフランク・ロイド先生からとても明快で的を得て、かつすぐ自分で吸収出来た「原理/原則」のようなものがありました(「口元に抵抗が余分にかからないようにするのがベスト」というものです)。

しかしそれ以外は、アレクサンダーテクニークの教師やアレクサンダーテクニークの資格をもつホルン奏者たちにレッスンを受けるまでは、「教えてもらって納得/使えること」には出会えませんでした。

まず、呼吸に関しては、残念ながら呼吸法は解剖学的/生理学的に誤りである指導が多く(「腹式呼吸」「肩は動かしてはいけない」「おなかに息を入れろ」)、要は比喩表現または経験論ですので、それを聞いて得るものがあるか、実際に先生のような能力を身につけられるかは、運や相性次第となってしまいます。現実には、技術的に悩む生徒の方が多いので、呼吸法の伝授がうまくいってないのが大勢と言えるかもしれません。

次にアンブシュア。

これは、管楽器の専門家たちも部分的にはかなり解剖学的/生理学的な理解を細かく持っています。

ですので、至って正確な情報がある面もありますが、問題点が3つあります。

・アンブシュアを唇周辺に限定して捉えている事」
・アンブシュアを固定的・静的な『形』で判断している事
・アンブシュアを直接的・単独的にコントロールさせてしまいがちな情報の在り方である事

ひとつひとつ掘り下げてみましょう。

①アンブシュアを唇周辺に限定して捉えている事

最近、アレクサンダーテクニークの学びで知った事なのですが、顔面の筋肉は筋膜/結合組織で実は頭のてっぺんや耳の後ろ、後頭部までお互いにつながって連動しています。ですので、唇の筋肉の動きやアンブシュアの機能は、唇やアゴのあたりだけで考えていても無理があります。

さらに、首や舌なども筋肉や腱/靭帯などで構造的に顔面と関わりを持っています。そして言うまでもなく、アンブシュアを振動させているのは息です。息の質は、アンブシュアの形成と不可分な要素です。

わたし自身、「正しいアンブシュア」を身につけようと過去に血のにじむような努力をしたが失敗に終わっていました。それの原因の一端が、アンブシュアを狭く限定して考えていたからです。

②アンブシュアを固定的・静的な『形』で判断している事

アンブシュアとは、生きた人間の身体全体が「楽器を演奏する」という「動き」をしている中の、ある一部のエリアのことです。

楽器を演奏しているということは、動いているということであり、アンブシュアも動いています。筋肉が活動しているのですから。

そしてその「動き」は、「演奏する」という意図によって形成されているものです。

アンブシュアを「型」で捉えると、本当は動いているものを固定的に見ているので、実際と離れてしまいます。事実と異なってくるのです。それ故に、うまくいかなくなる可能性を孕みます。

さらに重要な点は、「うまく演奏出来ている人」の「よいアンブシュア」はその人全体が演奏に関わり、それがうまく機能しているなかでの「アンブシュア」であるということ。

つまり、全体としてうまくいっているひとの、「ある特定の一部分の見た目の印象」なのです。「アンブシュアが良い演奏をしている」のではなく良い演奏をしているとアンブシュアがこのように見える」のです。

ならば、顔つきや顔の構造というのは人によって異なるのだから、「良い演奏」をしている場合、そのアンブシュアの見た目の印象も、当然人によって異なるのです。

ということは、「良いアンブシュア」の「形」を真似ることにあまり一生懸命になると、それは自分自身のできることと離れていってしまいます。(わたし自身の経験でもあります)

③アンブシュアを直接的・単独的にコントロールさせてしまいがちな情報の在り方である事

これは2つ目で述べた事とも関わりますが、実は本来、アンブシュアは直接的・単独的にコントロールするものではないのです。もちろん演奏の質に関わる度合いの大きい部位ではあるので、意識する割合が高いのは自然なことではありますし、必要でもあるでしょう。

しかし、「意識する」ことと「動かそう/コントロールしよう」とすることは異なるのです。

前者は「考えて」います。

後者は「感じて」います。

意外に思うかもしれませんが、人間は、動きと変化があるまで「感じる」ことはできないのです。

感じる「感覚」は、動きの結果を事後報告のレポートとして知らせてくれる機能です。

つまり厳密に言えば、、音を鳴らす「前」に、鳴らす「感覚」をアンブシュアや唇において感じることは実はできないのです。実際には、「動いた」から、その「動きの感覚」を感じているのです。

起きているころの本当の順番は、

「考える/意図する」→「動く」→「感じる」

となっています。

「感じる」ことを変えようと思えば、「感じ」をもたらす「動き」を形成している「考え」を変える必要があるのです。

まわりくどくなりましたが、アンブシュアを直接それだけ個別にコントロールしようとしているとき、ほぼ例外無く先に「感じよう」としています。

アンブシュアの動きもまた、「考えていること」に応じて形成されているのです。

それなら、アンブシュアの変化を望むのならば、それはアンブシュアの筋肉や形を直接的にどうこうしようとしてもあまり意味はありませんよね。そもそもアンブシュアという機能を成り立たせている「演奏する」という意図の質や内容を変える必要があるのです。

そのときに、アンブシュアを局所的に考えているか、広く捉えているかでも変わってきます。

番外編:アンブシュアを「引く」のはいけない?

豆知識ですが、よく「アンブシュアを引いてはいけない」と教えられることがあるかと思います。

もちろん、経験的には、アンブシュアを引くとうまくいかない、音が響かないという事でそれを納得しておられる方は多いでしょうあ。わたし自身もそうでした。

しかし、「引いてはいけない」と意識しすぎて、少し引く動きが起こると過剰に心配してその心配が硬さを生んで悪影響をもたらすことがありました。

つまり、「なぜ引いてはいけないのか?」という事の説明が存在していなかったんです。

その説明は、世界的なアレクサンダー・テクニーク教師である、キャシー・マデン氏にレッスンを受けたときに初めて知ることになりました。

①唇を引くのは、自然な動きの一部であり、それ自体に善し悪しはない
②しかし唇を引くと、筋肉が頬骨に密着し、共鳴が吸収される。
③それなら、共鳴をフルに得られた方が当然吹きやすい。だから、唇は前へと意識する。
④また、唇を引くと、マウスピースとの接着が減る。
⑤すると、マウスピースとの接着を増やすという余分な労力が加わる。
⑥そんなの無い方が効率が良いのだから、唇はマウスピースへ向かって行くと考えるとよい。

わたしの中では、革命的な説明でした。疑問が解けて納得し、これまでの経験に意味付けと理解ができたのです。

このような筋の通った多角的な説明は、あまりアンブシュア論の世界では見受けられません。

ですので、様々な書物や情報を読んでもうまくいかない/しっくり来ないという人にとっていまできることは、いまの時点ではっきり理解していること、自分の理解が明確なことをリストアップして、それを考えながら演奏をする、ということにフォーカスしてよいのではないかと思います。

わからない事や合わない事を無理にやらなくてもいいと思います。

そのとき分かる事/納得できる事柄や理解の範囲を無理に越えようとせず、とは、最低限必要なことに徹してみることからスタートするだけでもずいぶん悩みがスッキリするのではないでしょうか。

アンブシュアの「形」や「使い方」に不安を抱えているならば、もっと単純に音を考えて、息を出すというシンプルだけど重要な最大の基礎に戻ってくることをオススメしたいと思います。

ブログでは読めない話もたくさん!ぜひメルマガをGET♪

レッスンの申込や出張依頼などについては、こちら!

アンブシュアを「考える」」への6件のフィードバック

  1. いつも興味深く読ませてもらっています。
    「音を考えて、息を出すというシンプルだけど重要な最大の基礎に戻ってくること」は大切ですね。アンブッシャ、息、シラブル、ボイシングとか、奏法のことをあれこれ考えて体をコントロールしようとすると、うまくいかず、果てはスランプの原因になりますね。

    最近、そのことに気づいて、頭の中で出す音をイメージすることに集中するとうまくいくことに気づきました。頭の中ではっきり音がイメージできれば、身体は勝手に反応してくれますね。受動的にreactではなく主体的にactすることは、音楽の表現方法を高めることにとどまらず、楽器の演奏能力を向上されるために重要なんだと、改めて思うようになりました。

    一つ質問ですが、バジルさんは演奏するときに、頭の中で鳴らす音は、音名でイメージしていますか(たとえば「ドーミーソー」とか)、それとも音そのものでイメージしていますか?私は、音名でイメージしていますが、音そのものでイメージできるようになれば、奏法上の問題を大分解消できるように思うのですが、いかがですか?

  2. satoshiさん

    こんばんは。

    そのとおり、身体は頭が考えている事、意図する事を実現すべく反応してくれます。
    ということは、音楽演奏の場合、頭の中に音楽が鳴っている必要があるわけです。それが不明確だと、身体は混乱し、緊張します。

    ご質問の件ですが、ぼくは音名を考えてはいますが、その音名ははっきりはっきり頭の中でしゃべっているわけではないですね。ある音の高さ、音量、質、響きなどを考えるときの最初にもってくる記号というかきっかけ程度です。

    年月とともに、音そのものをイメージする度合いが大きくなってきています。

  3. お返事ありがとうございます。
    フィンガリングの問題がありますから、まったく音名を考えないわけにはいかないかもしれませんが、ピアニストのことを思えば、それも訓練しだいでオートマンにできるかもしれませんね。

    プロの方で、何の苦労もなく楽器を操れたのに、体が変化すr40ぐらいになって、自分の奏法を見つめなおして、急にうまく演奏ができなくなる、ということがあるようですね。考えてしまうとできなくなってしまう、というこうとでしょうか。

    昔パイパースで読んだのですが、Tpのハーセスさんは、指揮者からスタカートを要求されると、短くとか、前後の音とはっきり区別するとか、そんなことは考えないで、音そのもののイメージを変えることで対応した、とのことです。音楽に限らず、芸術にはイマジネーションが大切だとよくいわれますが、人間は頭に浮かんだこと以上のことはできないことを思えば、音楽の場合、音を頭の中でいかにはっきり正しくイメージできるかが、楽器演奏のテクニカルな面を向上させるためにも大変重要だというとなのでしょう。

  4. satoshiさん

    ハーセスさんの言っておられる事、やはり同僚のジェイコブズさんとよく似ていて興味深いですね。

    ぼくもレッスンや指導、仕事の場で助言を仰ぐ際、「もっとはっきり」「もっと長く」と指摘があった場合、その言葉通りにしても相手の思っている事とはどこかずれます。その代わり、相手の思っていること、考えている音楽に近い物をイメージできると、「長く/短く」「はっきり/やわらかく」と言葉で考えなくてもスルッとできてしまうことがあったりしますね。

    前者と後者では、後者の方がはるかに簡単です。

    音名に関してですが、ドレミを使わない英語/ドイツ語圏では音名で考えていないですね。音程で考えています。

    奏法や身体に関してですが、音/音楽とのむすびつき無しに考えて変えようとすると、危ないですね。また、直接的に身体をコントロールしようとするのも罠がある気がします。

    しかしながら、音/音楽という目的を達成するための手段として捉えて、その実際を正確/厳密に分析して考えるのは、間違った思い込みや不明確な考えによる演奏能力の混乱から自分自身を解放する可能性を持っていると思います。

  5. 演奏中身体はどのように動いているのか、また動かすべきなのか、を理解することは、演奏技術を向上させるためにも、スランプから脱出するためにも大変重要ですね。

    オートマン、という言葉がありますが、日々歩くにしろ、車を運転するにしろ、私達は個々のアクションを意識せずに行動しています。歩くときに「右足を出して、その時は左手を後ろに・・・」などといちいち考えていません。車の運転でも、最初は「ギアを入れて、アクセルを踏んで、ハンドルを・・・・」と考えいますが、慣れてくると、何も考えずに運転できてしまいます。夜灯りをつけずにトイレに行けるのも同じかもしれません。日々の生活の中でオートマンで行っていることはとても多いと思います。もちろん、オートマンでできることも、最初はそのやり方を理解し、意識的に身体をコントロールする必要がありますね。

    楽器の演奏も同じで、最初は、(イメージ)→(肉体の意識的コントロール)→(音)ですが、練習を通じてオートマンを確立することにより、(イメージ)→(音)、ということが自然にできるようになるのではないでしょうか。スランプから脱出するときも、正しい(肉体のコントロール)を改めて意識することが必要となると思います。

    ただ、(肉体の意識的コントロール)から抜けきれず、うまく演奏できない人が多いのではないでしょうか?(肉体の意識的コントロール)から抜け出すには、身体は自分のイメージする音を出すように自然に動いてくれる、という自信・確信が必要ですね。私もあまり偉そうなことはいえませんが。

  6. satoshiさん

    仰るオートマンは、特定の動作パターンが脳の(ちゃんとした名称は忘れましたが)より深部で行なわれるように機能が移行してこそできる事ですね。重要な機能であり、この自動化こそが「習慣化」です。

    対して意識的な認識(車の運転を学び始める段階)はもっと脳の新皮質(たしか)で行なわれています。

    楽器演奏の場合、もちろんどんどん自動化が進み、それでこそ自由に思った通りの演奏もできるわけですが、常に新しく、そしてよりよく学びたい(古い自動化をやめて、新しいものにおきかえる)わけですから、かなり意識的コントロールは重要なのではないか、と思います。

    「自由な演奏」のために確かに音を出す技術の自動化はやっているのでしょうが、「自動化」を目的にすると、ちょっとちがうのかな、という気はします。

    音楽と技術を別個に考えると、
    「自由に演奏するために技術を磨く」
    というアプローチになり、実はこれは問題を孕む可能性があると思います。

    それよりは、実際常に音楽をするということはそれを可能にしている物理的プロセスがあり、その物理的プロセス(思考と身体のプロセス)が演奏技術なんですよね。
    こう考えると、音楽と技術というのはもともと一体なのが分かるし、一体であると言う事実にとり依拠したアプローチが可能になると思います。

    かなり漠然とした禅問答になりすみません (>_<)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です