アレクサンダーテクニークの教師になる勉強をしてる中で、たびたび「感情」や「気分」に関する事がクラスで取り上げられます。
「感情」は、血中の分泌物や脳の中に放出されている化学物質、筋肉の状態などから成り立つものの総体で、物理的に実態ある反応。
だから、「感情」はれっきとした実在する機能というか現象なわけです。
ある状況にいるときに、その状況に対応して身体はある状態をつくります。
それの結果報告を「感情」や「気分」という形で主観的に受け取れる。
だから、「感情」や「気分」はありがたいもの。自分と自分のいる状況を「経験」させてくれるものです。
しかしながら、状況が極端だったり慣れないものだったり、あるいは重要なものだったりすると、「強い感情」を経験します。
そのときの感じに、人間はびっくりしてしまう。
びっくりして、反応して身体を固め、感情や状況に対して抗ったり抑圧しようとしたり始める傾向があります。
文化や伝統によってはこういった感情の質を理解した上で、感情を受け入れかつ抗わず経験することを教育のなかに含んでいるものもあります。
しかし、現代先進国の枠のなかではそうではありません。感情の処理の仕方を誰にも教わってきません。
結果として、感情に反応し感情に行動の基準を置き、非建設的な振る舞いに悩まされる場合が圧倒的に多いようです。
演奏をする人々にとっては、普通の日常生活とはかなり異なる、「観衆」や「音楽/芸術」の中に自分の身を置くという、強いエネルギーレベルを経験します。
すると、もちろん生体全体が対応しますから、感情や気分もそれに応じた分だけ強く経験することが多くなります。
ポイントは、それを「異常」や「問題」として捉えない事。
「自分全体が、張りを高め、エネルギーを蓄え、最良の準備を始めている証拠なんだ」とプジティブに受け取れれば、エネルギーに抗うのではなく、活用できる可能性があります。
そういう建設的な受け取り方が、「反応して身を固める」という癖を抑制してくれます。
なぜ、そんなことを書くかというと、きょうからリハーサル&コンサートが続く2週間に突入するからです。
今朝起きてみると、咳がちょっと出たり、ドキドキしたり。
前回のコンサートで、「反応」しすぎて体調を心身ともに少し崩したところなので、
また似たような「感情」や「気分」が出てきているのに気が付いたのです。
でも、今回はその「感情」とうまく距離が置けている気がします。
「自分自身」でいればいい。
「コワイ」と感じてもいいけれど、「怖がる」必要は無い。
「無力だな」と思ってもいいけれど、「無力な人」であろうしなくてもいいし、「自分は無力だ」と決めつけなくてもいい。
そんな風に考えています。