人間が身体を使って行う意味での奏法・唱法に関して、『これが正しいやり方で、結果を保証するから私に従いなさい』と言える人間なんて存在し得ないと思う。仮に、正確な観察と考察により1000人を連続して良い方に導いてこれた者だとしても、だ。
むしろ、1001人目でこそ、自身の指導が効果をもたらさないケースに出会うことを心待ちにする、そんな考え方でいることこそが望ましい。これまでたとえ完璧に機能してきた方法論だったとしても、その潜在的誤謬や限界を知りたい。もっと完璧な、もっと有益な方法論を作るきっかけになるからだ。
効果的な観察と考察をし、
有益な提案をすることを毎回目指す。
そしてその提案が効果的だったかどうか、検証しようとする。
うまくいったことを喜びつつ、それまでの自分の考え方や技法が通用しないケースに遭遇すればむしろワクワクする。
それこそが『理想の指導者』像としてみるのはどうか?
自分の教えに従うことを要求するのは、それ指導者としてはおぞましいものではなかろうか?奏法・唱法にかこつけた、道徳的調教、支配のようなものなのではないだろうか?
どう教えたり伝えたりしたら相手の演奏の助けになるか、なかなか分からなくたっていい。
提案に効果が無くて落ち込んだり焦ったりしたっていい。
言うことを受け入れてくれなくて内心ムカッとしていたっていい。
問題は従わせたいのか、助けになりたいのかであり、何を理想とするか、向かう方向だ。
Basil Kritzer