【他人の模索や工夫を見下す迷惑なひとたち】

『○○になってしまうのですが、どんな練習をすればいいですか?』という質問をする人が比較的若い人に多い印象。

だが、○○なることの解決改善は必ずしも練習ではない。

○○なるのは、何かそうなる力学が働いていることの結果で、その力学になる原因がある。

その力学を変えたり原因を除去したりすることが、解決改善するということ。

練習するというのは力学を変える一つの方法であり、身体の使い方や道具の工夫もそう。

医療や道具の工夫は原因の除去になることもある。

練習による解決改善は、力学の変化や原因に関する理解を伴うこともあれば伴わずに結果の変化のみになることもある。

ただし、理解することや原因の解明は、結果の変化により望みが満たされているならば必要不可欠ではない。

演奏上の特定の問題を改善するにあたり、特定のエチュードやエクササイズをやらせることを通して改善の結果をもたらすことに長けた指導者たちが存在する。

このような指導者に導かれると、練習が確実に問題解決や成長につながる感触があり、非常に楽しい。練習に前向きになる。

これは、本人が力学の理解や原因の把握をしなくても、音や音楽のことだけを考えていられるというのが素晴らしい。

しかしこれは、背景に問題の力学や原因を悟っている指導者の力量、あるいは問題とエチュード・エクササイズの対応を推測することを支える豊かな経験則があってこそ好循環する。

特定の練習をやればよいわけでも、特定の練習そのものが問題を解決しているわけではなく、力学の変化が問題の解決改善をもたらしているのだという理解は有益だと思う。その力学の変化をもたらしうる物事を広く模索できるからだ。

この模索を『練習から逃れようとしている』と見たがる人もいるが、まあそれは要は教養がなく了見が狭いのであって幼稚であり、誰にも何ももたらさない迷惑の一種である。

Basil Kritzer

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