科学に基づいた金管教育

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David Wilken氏 のウェブサイトより、記事「Arguing For Science Based Brass Pedagogy」(原文こちら)の翻訳です。
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【試行錯誤・コツ】

金管楽器を含むどんな楽器でも、その演奏を習得することの多くは「コツ」を必要とするものです。

上手になるには、いろんなことを何度も試したり、毎回毎回小さな身体的な調整をしたりしてやってはじめて一回うまくというようなことを繰り返していくことになります。

その後、一回だけでなく安定的にうまくいかせるためのたくさんの試行錯誤を重ねることになります。



【感覚の差異・バイアス】

演奏にともなう肉体感覚は奏者ごとに異なりますし、身体条件のちがいだけでなく、これまでどのように演奏してきたかという経験や個人的信念などのバイアスがかかってきます。

多くの金管楽器演奏教育が、最初に音楽性・芸術性を教え、演奏技法は模倣と比喩で教える形を取る理由はまちがいなくここにあります。

しかしながら、その結果として、優れた金管楽器演奏技法とは何でありそれをどのように獲得するかということに関しての合意は形成されないこととなります。



【分析を避ける傾向】

わたしたち金管楽器奏者は、「生まれついての天才」と呼ばれるような奏者たちにアドバイスを求める傾向があるのですが、演奏しているときに身体的に実際に起きていることに関して教えてもらうには、もしかしたらこの天才たちは最も参考にならないかもしれないのです。

金管楽器教育法の世界における無知がこれに組み合わさってしまうことがあります。

金管楽器の指導者が、演奏技法の分析をなるべくさせないようにすることは、ごく普通に見受けられることです。

「分析による麻痺になる」
「木を見て森を見ずになる」
「憧れの音を真似すれば、そのうち自分もできるようになる」
「赤ちゃんが考えなくても歩けるようになったように、考えなくてもできるようになる」
「ムカデが歩き方を考えてしまったら身動きが取れなくなる」
「考えるな、吹け」

といった言い方・考え方です。



【問うことはダメなことなのか?】

‥‥わたしはこのような態度に困惑を覚えます。

どうして、教える人が「問うこと」「考えること」をそうやって避けるのでしょうか?

問うこと、考えること、分析することは良くないことなんだというメッセージが学ぶ側に伝わってしまいます。そして、そういうメッセージは生徒が次の世代の指導者になったときも同じように伝わっていってしまいます。



【科学とは】

この事の別の一面は、金管楽器教育にたくさん見受けられる擬似科学的なものの数々です。

これは一部には比喩を文字通りに解釈してしまうこと、そして当てにならない肉体感覚に過剰に頼りすぎてしまうことに原因があります。

そして、もっと大きな原因は、わたしたちが自分で知っていることへの過剰評価です。

その核心には、科学的リテラシーの不足があります。

金管楽器の指導者は通常、科学者ではありませんが、わたしたちは科学というものは実際にどういうものなのかを誤解し科学に不信を抱いてしまう傾向があります。

これは専門性の閉じこもってしまう演奏や指導の権威によく見られることです。もし、わたしたちが教えていることが間違っていることを科学が示唆しても、それは前線で体を張ってこずに白い巨塔に閉じこもっているインテリは耳を傾けないのです。

科学は体系の集合体ではないのです。解剖学、生理学、身体運動学、音響学….こういったものが個々の体系です。これらの知見がわたしたちの金管楽器の教え方に示唆を与えてくれることはあるでしょうが。

また、科学は事実を収集することでもありません。事実もまたわたしたちの助けになることはあっても。

科学は、その核心においてわたしたちの知り得ることの限界を探求することなのです。

そして、仮説を検証し、推測や思い込みに揺さぶりをかけることです。

さらに、音楽と同じく、創造的な思考をたくさん使うことにもなります。



【科学とは?】

表面的には、わたしたち指導者はこういった手続きをわたしたち自身の指導においてやっているつもりではあるでしょう。

何かを生徒さんと試して、そしてそれがうまくいくかどうか測ります。

そのアイデアの検証をしばらく続けたのち、そしてやがて次のことを試しはじめます。

そうやって持っている手や知識から答えを見つけられなければ、目の前のひとりの生徒に個別に役立つことを何か生み出します。

ひとりの生徒にうまくいったことがあれば、他の生徒にも試してどうなるか観察します。

そうやって、年月を経ていくうちに、有用な比喩や方法論のレパートリーを蓄え、どの手をどういうときに打てばいいか、かなりいい線まで分かるようになっていきます。



【自分の間違いこそを探したい】

しかしながら、この過程を科学だと誤解してしまうことが、わたしたちにはあります。

科学は、わたしたちが自分自身の指導の現場で行う実験やけんsh王に、バイアスがかかっていることを認識します。

ですから、そうやって自分では実験しているつもりでも、結局自分のすでに信じていることを確認してしまいやすいのです。新しいことを学ぶのではなく。

自分の仮説のどこが正しいかを探してはならないのです。

探したいことは、わたしたち自身の信念の間違いを明らかにする方法をこそ探したいのです。

それぐらい精査をしても、自分のアイデアの誤りが見つからないなら、それでようやく、もしかしたら何か真実をつかんでいるのかもしれない、というレベルなのです。

金管楽器教育の方法は、長い間自分たちの既成概念を支持する証拠をばかり探してきました。



【科学の強み】

科学的方法論の強みはこの点にこそあります。

科学的方法論は、常に自らを修正し、もっと学ぼうとするのです。

科学に基づいた教育は、他の分野(たとえばスポーツ)においての方が注目されてきました。

金管教育は、自らの誤りを修正していくことがあまり上手にできていませんでした。

わたしたち金管楽器指導者はいつまでも、もう故人となった指導者の教えに習慣的に戻りがちです。彼らの著作に「聖書」のように触れ、それら故人に直接学んだひとたちを「門弟」として扱うのです。

ですがこのような態度は、変化を促すものではありません。



【進む科学的研究】

いまでは、金管教育について良質な科学的研究がなされています。

身体動作のスキルの身に付け方や、金管楽器を演奏するための具体的詳細な身体的なプロセスはわたしが学生だったころよりより明らかになっています。

エキサイティングなのは、そういった研究へのアクセスおよび研究に携わるひとへのアクセスが過去にないくらい容易になってきているということです。



【続けていくべき努力】

なかなか難しいことは、そうやって得られる情報を正しいニュアンスで述べられた文脈に位置付けることです。

これには努力が必要ですし、常に続いていく過程でしょう。

すでに知られていることだけ見ていてはだめで、そもそもどうやってそれを知っているつもりになっているのか、どのようにして知られたことなのかについても見るのが大切なのです。



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〜訳者コメント〜

今回の記事は、顔面を殴られるような鋭さを感じるとともに、

『探したいことは、わたしたち自身の信念の間違いを明らかにする方法をこそ探したいのです』

この一文には非常に心が晴れる思いをしました。

正しくあること、間違いがないようにすることではなく、『自分の間違いを探すこと』、そして見つけた間違いを、新たな学びによって『修正していくこと』。

これが核心的に大事なのだということを感じました。

わたし書いていることやレッスンで実践すていることの多くは、わたし自身が教わったり考えたり試したりしたときに大変有効で、またレッスンで生徒さんたちと試しても多くの場面の効果的だった事柄を共有しています。

ですが、それらの一部、もしかしたら大部分はまさに、この記事でWilken氏が言う「試行錯誤で導かれた方法論」であり、科学的に結論付けられたものではない、ということにそのまま該当するのだと思います。

そして、わたしに効果があった、生徒さんたちにも有益だというのも、わたしが出会う生徒さんの傾向や、わたしの主観によるバイアスの産物である一面が間違いなくあるのでしょう。


この記事でWilken氏が的確に指摘してくれたことを、今後もいつも頭に置いて、科学的に明確になっていることやわかってきている事実に合わせていく形で、自分の考え方や説明の仕方を常に修正していきたいと思っています。

実際、そういうプロセスこそがわたし自身の演奏も、レッスンでの生徒さんたちへの貢献度も常にアップさせてくれてきました。


また、

・意見
・考え
・仮説
・事実

はなるべくちゃんと書き分けるようにしていますが、自分の、特に過去の記事を見るとその区別が徹底できていないところにも気づかされます。

そういう箇所を見つけるたびに、修正していますが、事実だと思っていたことが実は仮説であった、あるいは自分の意見に過ぎなかったということが後でわかることもよくあります。

これは事実ではなく、意見や仮説なのではないか?
それを事実として書いていないか?

もしそういうところを読者の貴方が見つけたら、ぜひコメントでもメールでも構いませんので、ご指摘頂ければ大変幸甚です。


わたしが教師資格を持っているアレクサンダーテクニークという手法に関して言えば、その効果や恩恵については科学的な調査が進んでおりかなり証明されてきています。

一方、それがどうして効き目があるのかという作用機序の部分や、教え方、やり方については科学的には明らかではなく仮説や現場での実践の主観的体系の領域を出ないものだと、少なくともわたしは考えています。

このあたりの区別を、より明確に表現していきたいという気持ちを新たにしました。


近々、Wilken氏が言う「科学的研究」についても、非常に分かりやすく示唆に富むある研究についても掲載する予定です。

どうぞお楽しみに!


Basil Kritzer







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